大谷吉継コース

大谷吉継コース

OTANI YOSHITSUGU

徒歩2時間23分コース 9.4km

岐阜関ヶ原古戦場記念館

戦国時代最大の戦いである「関ヶ原合戦」を俯瞰するグラウンドビジョン、武将の目線で戦いを体験する大迫力のシアター、古戦場を一望できる展望台などを備えた史跡巡りの拠点。

1.7km 25分

①西首塚

戦いの翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された戦死者の処理を竹中重門に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2か所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。

0.2km 5分

②藤堂高虎・京極高知陣跡

藤堂隊・京極隊は、戦いが始まると大谷吉継が指揮する諸隊と刀を交えます。小早川秀秋が寝返った際、藤堂から調略を受けていた脇坂安治らも寝返り、東軍を勝利へと導きました。

1.7km 25分

③松尾山眺望地

大谷義継は最初から小早川秀明を疑っており、小早川の陣地である松尾山を監視できる場所に布陣しました。
松尾山眺望地とは、小早川の監視台ということになります。

0.7km 10分

④大谷吉継陣跡

小早川秀秋の不穏な動きを警戒した大谷吉継は、東山道(中山道)を見下ろし、松尾山を正面に望む山中に布陣。病のため輿に乗って部隊を指揮しますが、小早川秀秋や脇坂安治らに三方から攻められ、隊は壊滅しました。

0.3km 5分

⑤大谷吉継墓

最期を悟った大谷吉継は自身の首を隠すように家臣・湯浅五助に命じ、自刃。首を隠した直後、藤堂高虎の甥に見つかった五助は、自らの首と引換に吉継の首の秘匿を懇願したといいます。吉継の墓は藤堂家により建立されたといわれています。

0.5km 8分

⑥平塚為広碑

垂井城主(垂井町)である平塚為広は、盟友である大谷吉継の配下として参戦。吉継の代わりに前線の指揮を託されました。

1km 15分

⑦宇喜多秀家陣跡

西軍の副大将を担った宇喜多秀家は、関ケ原進軍時に殿(しんがり)を務め、夜半の行軍中に東軍の先鋒・福島隊に追いつかれ、小競り合いになったといわれます。本戦では、西軍最大の兵力約17,000を擁して戦いました。

2km 30分

⑧石田三成陣跡

関ケ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣した石田三成。麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に、西軍は次々に敗走しました。三成も伊吹山方面へ逃れました。

1.3km 20分

岐阜関ヶ原古戦場記念館

戦国時代最大の戦いである「関ヶ原合戦」を俯瞰するグラウンドビジョン、武将の目線で戦いを体験する大迫力のシアター、古戦場を一望できる展望台などを備えた史跡巡りの拠点。